聖書研究 世を越える愛
By Admin — 2025年11月17日
気をそらすものや欲望に満ちたこの世にあって、ヨハネの第一の手紙2章15-16節の言葉は深く響きます。「世も、世にあるものをも、愛してはならない。もし人が世を愛するなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、世から出たものだからです。」
日々の生活の中で、物質的な所有や社会的な承認を絶えず追い求めてしまうのは簡単なことです。広告は、幸福を富や美しさ、地位と同一視するメッセージで私たちを絶えず攻撃します。この絶え間ない攻撃は、私たちの希望やアイデンティティを一時的なものに置くよう導くことがあります。しかし、使徒ヨハネは私たちに深い真理を思い出させます。私たちの究極的な満たしは、この世からではなく、神との愛の関係から来るのです。
「世を愛する」とは、多くの場合、その価値観や優先順位に忠実であることを意味します。それは、つかの間の快楽を追い求めたり、SNSで承認を求めたり、消費主義の競争に巻き込まれることかもしれません。しかし、ヨハネはこれらの追求が、真の喜びと平安の源から私たちの心をそらすことを警告しています。私たちが心を世のものに投資するとき、知らず知らずのうちに神との距離を作ってしまい、神は私たちと親しい関係を望んでおられるのです。
だからといって、私たちは世から離れて孤立したり、責任を無視したりすべきではありません。むしろ、自分の心や動機を吟味するように求められています。私たちは自分の欲望の一時的な満足のために生きているのでしょうか、それとももっと偉大なもののために生きているのでしょうか。「肉の欲」「目の欲」「暮らし向きの自慢」は、どれも空しさへと導き、満たされず、霊的に疲れ果ててしまう道です。
むしろ、私たちの焦点を永遠のものに向け直しましょう。マタイによる福音書6章19-20節で、イエスはこう言われました。「自分のために、地上に宝をたくわえるな。そこでは、虫が食い、さびがつき、また盗人が穴をあけて盗む。しかし、自分のために、天に宝をたくわえなさい。」私たちが人間関係や親切な行い、霊的成長に投資するとき、この世を超えた遺産を築いているのです。
今日、あなたが本当に大切にしているものは何か、少し立ち止まって考えてみてください。知らず知らずのうちに、神との関係よりも世のものを優先してしまっている分野はありませんか。聖霊に、その分野を示してくださるよう祈りましょう。主を求めるとき、この世のどんなものよりも豊かな神の愛を思い出してください。
天にある宝を慕い求める心を育てていきましょう。そこにこそ、真の満たしと永遠の喜びがあります。そうすることで、私たちは神をあがめるだけでなく、希望を切実に必要としているこの世において、神の愛の光となるのです。