神は忠実な者を求める

By Admin — 2025年7月17日
今日私たちが生きているこの世界では、善良さはしばしば「いいね」やシェア、拍手によって測られます。
誰もが親切で道徳的で思いやりのある人として見られたいと願っています。SNSは美しく作り込まれた美徳のイメージや、人々が自分の寛大さや親切さ、高尚な意図を宣言する投稿であふれています。
しかし、魂の静かな場所で、拍手が止み、誰も見ていないとき、より深刻な問いが響きます。
📖 箴言 20:6
「多くの人はおのおの自分の誠実を言い表す。しかし、忠実な人を、だれが見いだすことができようか。」
このみことばは、自己宣伝や表面的な騒がしさの向こう側を見るよう私たちに促します。誰が善良だと主張するかを問うのではなく、誰が本当にそうなのかを問うのです。
承認を求めて飢え、忠実さに欠ける世代に、この古の箴言は魂に稲妻のように突き刺さります。
私たちの言葉を超えて、心の真実さを吟味するよう招いています。



聖句の分解(語句ごとの学び)
「多くの人はおのおの自分の誠実を言い表す」
- 「多くの人」 – これは人々に共通する一般的な傾向を示唆しています。少数派ではなく、多くの人に当てはまる人間の性質です。
- 「言い表す」 – これは叫ぶ、宣言する、公にするという意味です。意図的な行為であり、偶然ではありません。認められたい、見られたいという欲求を反映しています。
- 「自分の誠実」 – ここでのヘブル語の誠実はヘセド(חֶסֶד)で、親切や忠実、憐れみと訳されますが、この文脈では自分の美徳や道徳的な人格を指します。
👉 つまり、人は自分の良い面を語ったりアピールしたりしがちです。これは自己義認、自己宣伝、または自分をよく見せようとする傾向を表しています。
「しかし、忠実な人を、だれが見いだすことができようか」
- 「しかし」 – これは対比を示し、自分で善良だと主張する者と、本当に忠実な者を比較しています。
- 「忠実な人」 – ここで使われているヘブル語はエムン(אֵמוּן)で、信頼できる、堅実な、誠実な、忠実なという意味です。言葉だけでなく行いにおいて頼れる人の資質です。
- 「だれが見いだすことができようか」 – これは修辞的な問いです。一人もいないと言っているのではなく、そのような人が稀であることを示しています。これは箴言 31:10(「しっかりした妻を、だれが見いだすことができようか」)とも響き合い、その稀少さと価値を強調します。
🔍 文脈的・神学的考察
この箴言は、外面的な善良さの主張と内面的な忠実さの間に厳しい対比を示します。
1. 人間の自己宣伝の傾向
多くの人は自分の美徳をアピールするのが早い、とこの聖句は語ります。これは人間の高慢の状態を反映しています。自分の親切さや寛大さ、忠実さについて語るのは簡単ですが、言葉は人格の最終的な試金石ではありません。
エレミヤ書 17:9 より: 「人の心は何よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを知り尽くすことができようか。」
- イエスもまた、マタイ6章で「人に見せるために善を行う者」について警告されました。
現代風に言えば、これは善良さの見かけと本物の人格の違いです。

2. 忠実さの希少性
ここで言う忠実さは、たまに善行をすることを超えています。それは一貫した、持続的な忠誠心です。次のような人を指します:
- 誰も見ていないときに信頼できる
- 人間関係において忠実
- 義において一貫しており、自己利益に左右されない
この資質はなかなか見つかりません。多くの人は一度だけ親切な行いをしたり、美徳を見せたりできますが、誠実に長く生きる人は少ないのです。
📖 詩篇 12:1
「主よ、お助けください。敬虔な者は絶え、忠実な者は人の子らの中から消え去りました。」

🔎 自己吟味・自己省察
- 自己吟味:私は自分の善良さを言い表しているのか、それとも静かに忠実な誠実さを生きているのか?
- 名声より忠実さを求める:神はカリスマや自己宣伝よりも、一貫性と真実さを重んじられます。
- 本当の忠実さは困難の中で現れる:忠実な人は、誰も拍手しなくても、神と家族、真理に忠実であり続けます。
- 人間関係において:結婚、友情、教会共同体など、忠実さは信頼を築きますが、言葉だけではそれを損なうこともあります。
これらを祈りつつ、正直に自分に問いましょう:
神は、私の信仰だけでなく、行動と愛と従順においても私を忠実だと呼ばれるでしょうか?
「その主人は彼に言った、『よくやった、良い忠実なしもべよ。あなたはわずかな物に忠実であったから、多くの物を管理させよう。主人の喜びにあずかりなさい。』」(マタイ 25:21)
私は人前と同じように、誰も見ていないところでも同じ人間でしょうか?
「正しい者の誠実は彼らを導く。しかし、不信実な者の曲がりは彼らを滅ぼす。」(箴言 11:3)
たとえ損をしても、私は自分の言葉を守るでしょうか?
「その目には、卑しむべき者は軽蔑されるが、主を恐れる者を敬い、自分に損になっても誓いを変えない。」(詩篇 15:4)
自分の善良さを語るとき、それは神の栄光のためか、それとも自分を高めるためか?
「あなた自身の口でなく、他の人にあなたをほめさせよ。見知らぬ人に、あなたのくちびるでなく。」(箴言 27:2)
私は忠実さにおいて一貫しているか、それとも都合や注目によって揺れ動くか?
「このように、管理者には、忠実であることが要求されます。」(第一コリント 4:2)

自分の善行の報いを求めているのか、それとも神だけが見ておられることで満足しているのか?
「人に見せるために施しをしないように気をつけなさい。さもないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けることができません。」(マタイ 6:1)
🔁 関連する聖句
箴言 28:20 – 「忠実な人は多くの祝福を受ける。しかし、富を急ぐ者は罰を免れない。」
ルカ 16:10 – 「最も小さい事に忠実な者は、多くの事にも忠実である。最も小さい事に不正な者は、多くの事にも不正である。」
これらの聖句は、忠実さの希少さと価値を確認するだけでなく、神がそれをどれほど喜ばれ、報いてくださるかを示しています。
💬 まとめ
神は自己宣伝による美徳には感心されません。神は静かで一貫した忠実な信仰を生きる者を探し求められます。世は大きな主張に拍手しますが、神は人知れずの献身に報いてくださいます。
私たちは、宣言は早く、実行は遅い、約束は早く、忍耐は遅い世界に生きています。
誰もが善良に見られたいと願いますが、忠実という狭くて代価のかかる道を歩みたいと願う人はごくわずかです。
忠実さは華やかではありません。静かです。自分を誇りません。誰も拍手しないときに現れます。他の人が去るときも立ち続けます。赦します。祈ります。とどまります。
「忠実な人を、だれが見いだすことができようか。」
神は今もこの問いを投げかけておられます。それは神が答えを知らないからではなく、あなたが行動で答えることを望んでおられるからです。
あなたはその忠実な人となりますか?その忠実な女性となりますか?善良さを宣言するだけでなく、揺るがぬ献身でそれを生きる者となりますか?
これをあなたの心の叫びとしましょう:
「神よ、私のうちにきよい心を創造し、ゆるがぬ霊を私のうちに新しくしてください。」(詩篇 51:10)
本物が渇望されているこの世で、あなたの忠実さが誰かの嵐の中の灯台となるかもしれません。



🙏 祈り:「主よ、私を忠実にしてください」
天の父なる神様、
誇りと自己賛美があふれる世の中で、私は静かな切実さをもってあなたのもとに来ます。
誰も見ていないときに忠実であることを教えてください。
自分の善良さを語りながら、あなたが求めておられる静かな従順をないがしろにした時をお赦しください。
人の拍手よりも、あなたの承認を大切にする、純粋できよく聖なる心を私のうちに創造してください。
私を揺るがぬ者にしてください。私を忠実な者にしてください。
困難な時にも現れることができるよう助けてください。
報われなくても愛することができるよう助けてください。
損をしても従うことができるよう助けてください。
善良さを語るだけでなく、それを生きたいのです。
あなたが信頼できる者にしてください。
言葉だけでなく、魂の隠れたところでも忠実なしもべにしてください。
イエス様の聖く忠実なお名前によって、
アーメン。