あわれみとゆるし

By Admin — 2025年7月11日
あなたは、恵みから遠く離れすぎてしまったと感じたことがありますか?今の、あるいは過去の過ちが、ゆるしが越えられないほど高い壁を築いてしまったように感じたことはありませんか?
あわれみが限られ、条件付きに思えるこの世の中で、私たちが向かうことのできる唯一の場所があります。それは、神の御心です。そこでは、あわれみが尽きることはありません。
ダニエル書9章9節には、深い真理が記されています。
📖 ダニエル書 9:9
「わたしたちの神、主には、あわれみとゆるしがある。わたしたちは主にそむいた者であるが、」
この一節は、聖書の中でも最も力強い悔い改めの祈りの中にあり、神のゆるしは私たちの失敗よりも大きいこと、そして神のあわれみは自分で得るものではなく、与えられるものであることを思い出させてくれます。
あなたが希望やいやし、あるいは神とのより深い関係を求めているなら、この聖書の一節の学びは、ダニエルの祈りに現された神のご性質の豊かさへと導いてくれるでしょう。
この時を超えた真理が、あなたの神との歩みをどのように変え、神の尽きることのない愛の理解を深め、罪悪感や後悔の季節にも平安を与えてくれるかを共に探っていきましょう。



反逆のただ中にある神のあわれみ
ダニエル書第9章は、聖書の中でも最も深い悔い改めととりなしの祈りの一つを記録しています。預言者ダニエルは、エレミヤの書を読み、エルサレムの荒廃の七十年が終わりに近づいていることに気づきます(ダニエル9:2)。
それに応えて、彼は祈りと断食をもって神に向かい、自分自身の罪だけでなく、イスラエルの民の罪も告白します。
この節は、その心からの告白のただ中にあります。
👉 ダニエルは無実を訴えるのではなく、自らの罪と反逆を全面的に認め、それでも神のあわれみとゆるしに訴えています。
聖句の分解と解説
「わたしたちの神、主には、あわれみとゆるしがある…」
- 「わたしたちの神、主」 — ダニエルは神を個人的に捉えています。これは遠い存在の神ではなく、わたしたちの神であり、敬意と関係性の両方を示しています。
- 「あわれみとゆるしがある」 — 複数形(「あわれみ」「ゆるし」)は、神のあわれみの豊かさと深さを強調しています。
- 神はあわれみにも、ゆるしにも限りがありません。そのご性質自体が恵みに満ちています。
📝 適用: これは神のご性質を示しています。すべての真のあわれみの源は神です。
どんなに堕ちても、悔い改めの扉は、あなたの努力によるのではなく、神がどのようなお方であるかによって開かれています。
- あわれみ(ヘブル語 רַחֲמִים: rachamim)は、深い同情とやさしい愛を表します。
- ゆるし(ヘブル語 סליחות: selichot)は、罪の完全な除去や免除を意味します。
「…わたしたちは主にそむいた者であるが」
- 「が」 — この接続詞は、神のご性質と人間の行いの対比を示します。反逆があっても、あわれみはなおも与えられます。
- 「わたしたちはそむいた」 — ダニエルは祈りの中で一貫して「わたしたち」と言い、自分自身が正しく生きていたにもかかわらず、民の罪と自らを同一視しています。
👉 「そむいた」という言葉は強い意味を持ち、単なる過ちではなく、意図的な反抗を表します。
📝 適用: 真のとりなしは、へりくだって他者と自分を同一視することにあります。ダニエルは、罪の深さを認めつつも、神のあわれみの偉大さを見失わず、誠実に告白する模範を示しています。
重要な洞察
- 神のあわれみは契約に基づく
ダニエルは神とイスラエルの契約関係を呼び覚まします。反逆の中にあっても、神の契約の愛は消えません。これはキリストにおいて成就される新しい契約を予見しており、そこではあわれみとゆるしがさらに大きく示されます(ヘブル8:12)。 - 告白は神中心でなければならない
ダニエルの祈りは自分の正しさではなく、神のあわれみに焦点を当てています。これは、悔い改めにおいて言い訳ではなく、神の恵みに訴える正しい姿勢を示しています。 - 反逆にもかかわらずゆるしがある
人間の論理では、反逆は滅びにつながるべきですが、神の御国はさばきを超える恵みによって特徴づけられています。ダニエルはこの真理を認め、それにより頼っています。
今日への実践的な適用
誰もゆるしから遠すぎることはない - どんなに反逆したとしても、その罪が一瞬であれ一生であれ、神のゆるしは手の届くところにあります。
神のあわれみは、時間や罪の重さ、失敗の回数によって制限されません。最も大切なのは、あなたの心の姿勢です。本当に心から求めていますか?
聖書の物語は、完璧な人々の話ではなく、不完全な罪人をゆるす完全な神の話です。
ダビデ王の姦淫と殺人、ペテロのイエス否認、パウロの初代教会への激しい迫害に至るまで、神の恵みは彼らの最も低いところで彼らに出会い、回復させました。なぜでしょうか?それは彼らが心から悔い改めて神に立ち返ったからです。本当に心からでなければなりません。あなたの悔い改めが本物かどうかは、あなたと神だけが知っています。
悔い改めは、完璧な言葉を並べたり、一時的な罪悪感を感じることではなく、罪から離れて神に向かう本物の心の変化です。そのとき、ゆるしの門は大きく開かれます。
「もし、わたしたちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめてくださいます。」(ヨハネの第一の手紙 1:9)

誰も手遅れではありません。神は打ち砕かれた者を退けず、回復されます。神のあわれみは正しい者への報酬ではなく、悔い改める者への救いです。
へりくだってとりなす - ダニエルが悔い改めの祈りに自分自身を含めたように、私たちも同じへりくだりと砕かれた心で他者のために祈るように召されています。
自分の実績でなく、神のご性質により頼む - あわれみとゆるしは神のものであり、私たちが得るものではなく、神が与えてくださるものです。
🛑 ゆるしは得るものではなく、賜物です
聖書的に真実なのは、私たちは自分の力でゆるしを得ることはできないということです。これは旧約・新約聖書の両方で強調されている中心的な教理です。
🔹 聖書からの根拠:
📖 ローマ人への手紙 4:4-5
4 働く者には、その報酬は恵みではなく、当然支払うべきものとみなされます。
5 しかし、働きがないのに、不信心な者を義とされる方を信じる人には、その信仰が義とみなされます。
▶ パウロは、もしゆるしが行いによって得られるなら、それは私たちに支払われるべきものとなります。しかし、実際にはそれは信仰によって、神の恵みとして与えられます。
📖 詩篇 130:3-4
3 主よ、もしあなたが罪に目をとめられるなら、主よ、だれが立ちえましょう。
4 しかし、あなたにはゆるしがあるので、人はあなたを恐れかしこみます。
▶ ダビデ王は、もしゆるしが得なければ誰も神の前に立つことができないと認めています。ゆるしは神のご性質から流れ出るものであり、私たちの価値によるものではありません。
📖 テトスへの手紙 3:5
「わたしたちが行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみにより、再生の洗いと聖霊による新生によって、私たちを救ってくださいました。」
▶ 正しい行いによってもゆるしは得られません。それは完全に神のあわれみによるものです。
📖 エペソ人への手紙 2:8-9
8 あなたがたが救われたのは、恵みにより、信仰によるのであって、それは自分自身から出たことではなく、神の賜物です。
9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためです。
▶ この箇所は、救い、すなわち罪のゆるしが神からの賜物であり、良い行いや努力で得られるものではないことを明確にしています。
私たちは教会出席や善行、道徳的行動、儀式によってゆるしを得ることはできません。
これらは変えられた人生の現れかもしれませんが、恵みを買うことはできません。ゆるしはイエス・キリストの血に根ざし、信仰と悔い改めによって受け取るものであり、人間の努力によるものではありません。
神は私たちが良いからゆるすのではなく、神ご自身が良いお方だからゆるしてくださるのです。



⚖️ すべての罪は罪 ― 神は私たちの尺度を用いない
私たちは人間の本性として、罪を「小さい」「大きい」と区別しがちです。
殺人や偶像礼拝は重大な罪と見なし、陰口や高慢、ゆるさない心は小さな欠点とみなすかもしれません。しかし神の目には、罪は罪であり、どんな反逆も、密かにささやかれても公然と叫ばれても、神の聖さから私たちを引き離します。
聖書はこう語ります…
「律法全体を守っていても、一つの点でつまずくなら、すべての点について罪を犯したことになる。」(ヤコブの手紙 2:10)

つまり、陰口も重い罪であり、姦淫や盗みと同じ重みがあります。神の律法を一つでも破れば、私たちはあわれみを必要とする者であり、どんな罪も小さすぎて問題にならないものはなく、大きすぎてゆるされないものもありません。
ダニエルの9章での告白は、言い訳や罪のランク付けではなく、ただ反逆を認めています。
❤️ ここが鍵です:悔い改めは罪の種類に依存するのではなく、へりくだって神に立ち返る心、神のあわれみに信頼する心にかかっています。
結論と黙想
ダニエル書9章9節は、神のご性質を力強く思い起こさせてくれます。
すぐに非難し、なかなかゆるさないこの世の中で、この節は、あわれみとゆるしを豊かに持つ主に目を向けることを教えています。
また、罪を深刻に受け止めつつも、神のあわれみにさらに深く信頼するように私たちを招いています。
🙏 個人的な祈りのひととき…
決まりきった祈りを捧げる代わりに、これはあなた自身の時です。自分の声で、自分の言葉で、自分のペースで、本当に心から準備ができたときに、神に直接語りかけてください。
言葉が美しいかどうかを気にしなくて大丈夫です。神は完璧さを求めておられるのではなく、あなたの心を見て、誠実さを聞いておられます。
本当に準備ができたとき、静かな時を持ってください。
神が御言葉を通して示してくださったことを黙想しましょう。
告白すべきことがあれば告白し、その特定の罪から離れることを意識的に選びましょう。悔い改めは「ごめんなさい」と言うだけでなく、心を明け渡し、罪深い決断を認め、そこから離れる決意です。
神のあわれみに感謝しましょう。神に近づけてくださるよう、恵みのうちを歩ませてくださるよう、神のご性質を映す心に造り変えてくださるよう祈りましょう。
子が愛する父に語るように、神に語りましょう。それが、あなたの本当の姿だからです。
心から準備ができた時に、自分のペースで祈ってください。このような祈りは強制できるものではなく、誠実な心からしか生まれません。